ケータイ電話屋さんの店頭で、キャンペーンガールがテュッシュを配っていた。
そこを酔っぱらった兄ちゃんたちが通りがかって声をかけた。
「ねえちゃんカワイイねェ」
「電話番号教えてよ」
「(メール)アドレスだけでもいいからさァ」
キャンペーンガールは軽く受け流した。
「ダイジョウブでェす」
それは平日の夕方であった。
日の暮れる前から赤ら顔でカンチューハイを手に商店街を歩く兄ちゃんたちがキャンペーンガールに声を掛けるとは、実になんというか、漫画的というか、郊外的に弛緩した光景であった。
そしてキャンペーンガールは、「ダイジョウブでェす」と酔っぱらいをかわした。
たいしたスキルである。
そして「大丈夫」が拒否の表現になることが面白い。
これが今どきの日本語表現である。
うちのチビ達もダイジョウブという。
(ご飯のとき)
「もう少しどうだい?」
「ダイジョウブ」
(買い物いくとき)
「何か買ってこようか?」
「ダイジョウブ」
前者は、お腹いっぱいなのでもういりません大丈夫です、のダイジョウブである。
後者は、いま買うべき必要なものはないので大丈夫です、のダイジョウブである。
この表現の背景は、「結構」というような断定的な断りやダイレクトな拒否の表現を避けるため、ダイジョウブと言うようになったのではないだろうか。
ささいなことではあるが、人と人の間に生じる摩擦を避けるため生まれた表現なのではないか。
そうか、そんな風にわれわれは気を遣っているのである。
面白いなあ。
でも、そんなことにまで気を遣うのってめんどうくさいなあ。
と、ときどき思う。
先頃、アップルコンピューターがアイフォーンの新機種の発売をアナウンスした。
それを見て妻は、カラフルなアイフォーンがカワイイという。
カワイイとはつまり、欲しいということだ。
私はいまだにシンプルなケータイである。
通話とメール程度のガラケーである。
電話ですらほとんど使わない私は、スマートフォンを欲しいとはあまり思わない。
電車などで使う際に、若干ダサイと感じるためスマートフォンにしてもいいかなァ程度である。
「私が新しいアイフォーン買ったら古いのあげようか」と妻は言う。
チビ達は「おとっちゃんスマホ使いこなせないんじゃない?(笑)」と言う。
こんにゃろうばかにしやがって(笑)
スマホ? ダイジョウブでェす。