商品には値段がついている。
値札を見て高いとか安いとか思うのは、見る人個人の基準である。
同じモノを見ても値段について隣の人が同じように感じているかは分からない。
高級品を、やけに高いと思うか、高いなりに妥当な値段だと思うか、あるいは手頃な値段と判断するかは、モノを手にする人ぞれぞれなのである。
新品として流通するモノはおおよそ値段が決まっている。
店が違っても、同じ商品なら同じような値段で並んでいる。
しかし中古品に定まった値段はない。
同じモノの値段が、ある店では数百円、ある店では数万円となることだってある。
それは売る人の基準や価値観で値段が付けられるからだ。
中古品の値段は、店主の知識と経験のすべてが集約されていると言って過言ではない。
それまで見てきたもの、手にしたものすべて、学んだことすべての結晶である。
いくらで買っていくらで売るか。
それが問題なのだ。
個性的な店には個性的な品が並ぶ。
店主の眼鏡にかなった品が買われ、店主の眼力によって値付けされている。
まず、品物の正しい判定が不可欠だ。
いつ頃作られたモノか。
状態はどうか。
本物かニセモノか。
人気は?
市場での相場価格は?
そのようなさまざまな条件が加味され値段が付けられる。
店としては客層へのマッチングも重要だろう。
貴重だからといって誰もが高値で買うとは限らないからだ。
一方、新古書店といわれる店において、値付けはまったく異なる概念で運用される。
ベテランでも今日入った新人でも、同じ値付けが出来るようシステム化されている。
眼力も経験もそこでは必要とされない。
目の前にある「モノ」を、マニュアルに従って判定すれば、買取値も売値もただちに決まる。
私は「掘り出しモノ」が好きだ。
自分の基準に対して、店の基準が著しく安く値付けしている品を「掘り出しモノ」と定義しようか。
私は、掘り出しモノとの出会いを夢見て中古屋さんに通う。
しかし、個人経営の店で「掘り出しモノ」を購入することは、時に胸が痛む買い物だ。
店主の勉強不足を感じつつ、一抹の申し訳なさもまた感じてしまう。
だましているわけじゃないけれど。
以前中古品店でこんな客を見た。
その客は店主に、ある品について自分の思う適正価格を伝えていた。
高値を指摘したのではない。
この品にこの値段は安すぎる、と値札以上の金額を払ったのだ。
値切る客は多いが、このような客は滅多にいないだろう。
店主がその客をどう思ったかは分からないが、私はなんて格好いい客だ、と驚いた。
私にはほど遠いレベルである。
チェーン展開している店では「掘り出しモノ」を見つけても胸の痛みは感じない。
むしろ、やった!とガッツポーズのひとつもしたくなる。
今回紹介のカウント・ベイシーのレコードは、まさにそんな店で見つけた掘り出し物である。
ジャケット、盤ともにコンディションはまったく申し分ない。
モノラル時代のステレオ盤だからって、500円でお釣りがくる値段って…。
たぶん何かの間違いだ(笑)。