父からはがきが届いた。
父の日に、くるりの曲をセレクトしたCD−Rを送ったお礼だった。
はがきには、父らしい率直さで、くるりを気に入らなかった旨が記されていた。
実に父親らしい素直な反応だ。
いつだって、好きなモノは好き、ダメなものは駄目。
はっきりした評価が下るのだ。
もちろん、あとで評価が変化することもある。
そんなときは「あのCDやっぱり良いな」と言ってくる。
ビーチ・ボーイズのペットサウンズを送ったときなどまさにそうだった。
くるりのことも、また時間をおいて尋ねてみよう。
はがきには水彩絵の具で露草が描かれていた。
娘に見せた。
「じいじ、絵チョ〜ウマッ!」
実にちびっ子1号らしい素直な反応だ。
笑ってしまった。
「プロだからね」と私が言うと、「そうだけど、メッチャうまいじゃん」。
「じいじの絵を見ることってあまりないね」と言うと、「うん、わたし初めて見たかも」と娘は言った。
私の父は染色作家である。
父の静岡にある本家は、芹沢けい介とも交流のあったきものの染物屋である。
しかし父は柳宗悦に心酔し、本家から独立した民藝派の作家なのだ。
娘が驚くのも無理はない。
娘にしてみれば、じいじの作品は見たことあったが、素描は初めてだった。
こんな絵をさらりとかけるじいじはそういない。
私も父の素描を久しぶりに見た。
私が実家にいた頃はそこら中にスケッチが散らかっていたので見慣れているが、独立してずいぶんたつ。
父は、スケッチブックなど使わず、たいがい広告の裏側に描いていた。
それも彼なりのこだわりなのだった。
新聞に入ってくる裏面印刷の無いちらしをわが家では「ウラジロ」と呼んで父用にまとめてとって置いていた。
その頃の私には「ウラジロ」がとても貧乏臭く感じられて嫌だった。
染色は、技術的な制約があるためフリーハンドで描くようにはいかない。
正しい線が見つかるまで何度も下絵を描き、かたちを探り、図案が決まる。
型紙を作り、生地に防染を施し染料をおいていく。
そこに描かれるのは抽象化されたとても強い線だ。
自然物は、図案化されることによって普遍性を獲得する。
「絵の上手さ」よりは「図案の完成度」こそが作品を優れたものにする。
それに対して、はがきに描かれた線は繊細でとても可憐だ。
心憎い構図、心憎い文字のレイアウト。
「上手い」は私にとって必ずしも褒め言葉ではないが、このはがきを見て、上手いなあと思ってしまった。
例えていうならば、海外の有名サッカー選手がリフティングをしているニュース映像を見て、試合中に感じるプレーとはまったく違う種類の「上手さ」を感じて驚いた、そんなカンジだった。
父からこんな風に絵はがきをもらうことは初めてのような気がして嬉しくなって、思わず電話をかけてしまった。
「とても良いね」と伝えると、「ここのところさぼっててちゃんと描いてなかったんだ」なんて謙遜しつつ、まんざらでもない様子だった。
私は「ありがとう」と言った。
父は「また、くるり聴いてみるよ」と言って電話を切った。
たぶんCDちゃんと聴いてなかったんだろうな(笑)