古本屋で手にした、片岡義男「ブックストアで待ちあわせ」(新潮文庫)がとても面白かった。
ポパイの連載記事を、「アメリカの本について書いたものだけを抜き出して1冊にまとめたら面白いと思います」という編集者の言葉にしたがってまとめたのがこの「ブックストアで待ちあわせ」である。
これは、アメリカの本について語られているのだが、片岡義男が手にしたのは実にさまざまなアメリカの本なのである。
小説や評論はもちろん、写真集や画集、幼児向けの絵本シリーズなどがあったりする。
「ビールの空き缶コレクターのためのバイブル」「あなたのフォルクスワーゲンを生かしつづけておくにはどうすれなよいか」といったタイトルだけでも魅力的な本が次々に紹介されている。
しかしこれは、単に素敵なアメリカの本を紹介した軽いエッセイ集にはとどまらない濃い内容なのだった。
「ABCに苦労する子供たちと、ひらがなで楽をする子供たち」
「国語の勉強は、実はほんとうの社会科の勉強だったという話」
「アメリカがアメリカ語を喋るのが聴こえてくる」
「人生に成功したければ、言葉を勉強したまえ」
「アメリカの街角で、広告看板や標示を勉強して歩く」
目次に並ぶタイトルをいくつかあげてみれば少しはその濃さが伝わるだろうか。
アメリカの本を入り口に、日米の言葉の認識の違い、文化の違い、教育の違いが語られる。
比較文化論といったら少々堅苦しいが、そんな雰囲気はもちろん無くて、あくまで軽い語り口なのである。
しかしそこで語られる内容はとても濃い。
連載時、多くのポパイ読者は軽いエッセイとして読み飛ばしていたことだろう。
私もアラフォーになってこの「ブックストアで待ちあわせ」を読んでみたら、猛烈に感動してしまった。
この感動をなんとか人に伝えられないのものかと思っていた。
しかし、このブログでどう紹介しようと思ったものの良い案が浮かばず忘れかけていた。
そんな時に、坪内祐三「文庫本福袋」(文芸春秋)を読んでいたらこんな一文に出会ったのだ。
嬉しかった。
<ある人に、片岡義男って面白いね、と言ったら、今さらという顔をされてしまった。
わかっていないやつだな。
片岡義男は今、更に面白いのだ。
そういうやつは、せいぜい、片岡義男のことを、作家として、そしてアメリカ文化紹介者としてしか
認識していないのだろう。
しかし、最近の片岡義男は、そういう二つの肩書きを超えて凄いのである。
肩書き、と書いたのだけれど、今の片岡義男にもっともふさわしい肩書きは、「思索者」だろう。
言葉を本質的な道具として使用する「思索者」。>
そうか、私は「思索者」としての片岡義男に出会ったのだ!
さすがは坪内祐三、上手いこと言うね(笑)
片岡義男といえば、私が中学生だった80年代中頃、赤川次郎と並ぶ(?)大人気小説家であった。
本屋に行けば、両手をひろげたくらいに、ずらりと本が並んでいた。
片岡義男の小説は、赤川次郎の分かりやすい漫画的面白さとは対照的だった。
そこに描かれる都会的で大人っぽい世界、特に女性の描かれ方は、田舎の中学生にはほとんど分からなかったが、背伸びして読んでいたことを思い出す。
「〜〜だった。〜〜だった。」というハードボイルドな文体も、「文体」なんて言葉すら知らない子供にも、とても印象に残った。
また、角川文庫の赤い背表紙が目に鮮やかだったし、紙質が普通の文庫本とは明らかに違っていた。
佐藤秀明の写真がとても素敵だった。
しかし、文字が少な目で割高な気がしてたなあ(笑)
片岡義男は今どき、一般的には過去の作家なのだろうか。
失礼ながら私もそう思いかけていた。
新刊本でも古本でも、探してみも案外見つからないようだ。
根気よく探して行こうと思う。
なお、この「ブックストアで待ちあわせ」はたったの50円だった。