1冊の本を読み終えず途中でやめてしまうことがある。
小説であったり、評論であったり、随筆であったり、文章に馴染めなかったり、その世界に入って行けなかったり、内容に違和感を感じたり、理由はさまざまだ。
明らかに面白くなくてやめるのはしょうがないとしても、読みはじめた本を途中でやめることに一抹のやましさを感じていた。
なんとはなしに罪悪感を感じてしまっていた。
それは何に対して?
まずは作者に対して、そして作品に対して失礼な気がする。
次に、言葉にすると少々大げさに響くかもしれないが書物の神様というかそういう存在に対して懺悔したくなるような気持ちが湧いてくる。
すみません私はこの本を途中で投げ出してしまいました、というような。
それは、本をうっかり踏んでしまったり、粗末に扱ってしまった時に申し訳なく感じるのと同じ対象でもあったりする。
しかし、たかだか「紙」である本に対して感じるこのような感情は一体何なのであろうか。
本は大事にするべきであるとの幼い頃からの教育、刷り込みの結果なのだろうか。
「言霊」なんていう言葉もあるが「本」という物理的存在に「言霊」宿っているのだろうか。
違う気もする。
また、1冊の本を読み通すことが出来ない自分に対して不甲斐なさのような気持ちがつきまとうのである。
集中力、あるいは理解力が足りないのではないか、という自問自答。
読み通すことが出来ないのは自分側の問題であると感じているのである。
とはいえ、そんな感情も歳を取るにしたがって変化してきている。
責任は自分だけにある、という前提が果たして正しいのか?という疑問。
歳を取ると少しずつ厚かましくなるひとも多いようだがこれもその一例なのか?
いやいや、ある本に没入できないからといってそれが自分だけの問題ではないだろう。
作者との相性もあるし、今イチな本だってたくさんあるさ、という開き直りである(笑)
もっとも、評価の定まらない本ならそんな言い訳(?)も有効だが、過去の名作の場合そうもいかない。
となるとやはり自分の問題なのか?
この頃では、馴染めない本もあるさ、と割り切ることが出来るようになってきている。
人生で読書に費やすことが出来る時間は限られているのだからフィットしない本を無理してまで読むことはない、と気持ちを切り替えるのだ。
一度読むのをやめてそれっきり、ということもあるが、気になってときどき手に取る本も多い。
タイミングによって読めなかった本が後にすらすらと読めることもままある。
しかしいつも同じところで読めなくなる本も、ある。
もっとも、大好きだったはずの本を後になって読み返してみたらそれほどひかれなくなっていた、ということだってある。
好きな作家も変わるし、好みのジャンルも変わる。
本とのつきあい方も歳と共に変わる。
今になって思うのは、興味の範囲を絞りすぎないようが良い、ということ。
これは本に限った話ではないが、歳を取ると共に強く思うのである。
放っておくと新しいことへの興味が湧かなくなってしまうからね(笑)
近頃は、買ったままで読む日を待ついわゆる「ツンドク(積ん読)」のほうも増える一方なのだったりする(笑)
困ったことだ。