ジャズに興味を持ち聴きはじめた頃に知っていた名前と言えば、チャーリー・パーカーやマイルス・デイビス。
知っていても例えば、ベニー・グッドマンやフランク・シナトラ、ベイシーやエリントンなどは聴くべきミュージシャンだとは思っていなかった。
ジャズと言えばモダン・ジャズと思い込んでいたからスイングはほとんど目に入らなかった。
まあ一般には今でもそういう風潮があるのではないか。
モダンこそがジャズである、と。
そのくせ皆の耳に馴染んでいるのはスイングジャズだったりする。
だって、「A列車で行こう」や「イン・ザ・ムード」は誰でも耳にしたことがあるだろう。
では、モダンジャズの名曲で唄えるのは?
パーカーだってマイルズだって多くの人はほとんど聴いてすらいないのに、まったく。
しかし、自分もそうだったので人のことはあまり言えない。
ビリー・ホリデイというのもなかなかやっかいな存在であった。
「ストレンジ・フルーツ」という言葉は伝記本のタイトルにもなっていてよく知られていた。
コモドア盤のジャケットはなにしろ有名で、先輩の部屋の壁に飾られていたのも印象的だった。
ジャケットをそんな風に飾るのが、なにしろかっこ良く見えた。
自分もあんな風にしてみようと思ったものだ。
大学生の頃聴きだしたジャズにはどこかで、背伸びして聴いているという、きちんと分かっていないという引け目があった。
一方で、同年代ではそうポピュラーな音楽ではく、聴いていること自体で鼻高々という気持ちもあった。
そう、このようになんともねじれた想いがあったのだ。
つまり、チャーリー・パーカーって良いよねとか、ビリー・ホリデイ好きなんだとか積極的に誰かに言ってみたい気持ちが先行して理解がともなっていなかった訳だ。
コモドア盤のジャケットを飾っている先輩はジャズの良さを分かっているらしいが、自分にはどうもその良さが完全には分からない。
つまりまだビリー・ホリデイのジャケットを飾れるほど好きではない。
理解しようとジャズ本などを開いてみれば、ビリー・ホリデイといえば当然のように紹介されているのでさらに焦る訳だ。
好きになりたいのに、どうも魅力が分からないレコードがある。
このようなジレンマは、チャーリー・パーカーにも同じことが言えた。
つまりは頭でっかちに聴いていたんだ。
まあ分からなくても良いや、と開き直れたのはいつ頃からだろう。
好きなものは好き、聴いて今イチならしょうがない、と割り切れるようになったのは。
レコード棚につっこんでおけばそのうち好きになるかも、と。
今にして思えば録音の古さに馴染みが無く、音楽をきちんと聴けていなかったようにも思う。
古色蒼然とした、まるで隣の部屋から聴こえてくるような録音。
当時のロックばかり聴いてきた耳にはそれだけでもハードルが高かったのは事実。
その音のままに受け入れられる人もいるのだろうが私には難しかったということ。
まあ、それも仕方がないじゃないか。
そして今、深夜にそっと、「BILLIE HOLIDAY / GOLDEN YEARS」に針を落とす。
傍らにお酒などを置き、ビリー・ホリデイの若く張りのある声を聴く。
彼女のみずみずしい声が自由自在にスウィングするのを聴く。
歌うことが楽しくて仕方ないというように、イマジネーションのままに唄うのだ。
その唄声には一点の曇りもなく、輝ける日々が広がっている、はずだった。
今の私は、ただ何も考えずに音に身をゆだねることが出来る。
考えるのではなく、ビリー・ホリデイの唄声で身体を満たしてやれば良いことが分かってきた。
タイムマシーン、という言葉がポっと頭に浮かんだ。
レコード!これこそがタイムマシーンだ、と。
なんだ、人類はとっくにこのSF小説などに登場する想像上のテクノロジーを手に入れていたのではないか。
つまり、僕らは未来を生きているのだ。
その未来でビリー・ホリデイは、イマジネーションの限りに唄い続けているのだ。
レスター・ヤングやテディ・ウィルソンに囲まれて。