一日の仕事が終わった。
今日もまたそれなりの日だったなあと思いながら、私は帰りの電車に乗っていた。
窓の向こうを夜の暗闇が流れていく。
家にも街灯にも明かりが灯っているのを、つり革ごしにぼんやりと眺めていた。
私の前の座席に座っているスーツ姿の若い女性が、スマートフォンの画面をものすごい速さでたたいている。
両手の人差し指をピンと伸ばして画面をタップし続ける。
私は何だか疲れていた。
それはいつもと同じような帰り道だった。
それなりに混んだ電車が、名前だけお馴染みの駅をつぎつぎと進んでいく。
電車が止まって扉が開いて、人が降りて乗って、扉が閉まって再び走り出す。
毎日通過して、駅名は知っていても、決して降りることの無い駅だ。
その駅を利用する人たちをぼんやりと私は眺めている。
仕事で通う人、用事でたまたま来た人、住んでいる人。
数えきれない人がいて、それぞれの人生がある。
その路線の途中に、古本屋を見つけていた。
車窓から派手な黄色の看板に気付いたのだ。
あの店は、駅から5分くらいの距離だろうか。
あれは、たしか、次の駅だったのではないか。
降りてみよう。
その駅は、片方のホームにしか改札口がなかった。
駅から出るには、反対のホームへ橋を渡って行く必要があった。
通過するだけの駅のことは、そんなことも知らないのだった。
小さな駅だった。
駅前には、一列ぱらぱらとお店がある程度のさみしさだった。
その先はすぐにくらい道で、街灯がぽつりぽつりと伸びていた。
街灯の伸びるその先に古本屋が見えた。
黄色地に赤いゴシック体で店名が書かれた大きな看板が夜道にまぶしかった。
それは郊外にあるような、いわゆる新古書店だ。
店に入る。
思っていたよりずっと広い店だった。
漫画がずらっと棚に並んでいた。
奥にはゲームソフトやCD、DVDが見える。
さっとフロアを一周してみたが文芸書がまったく無い。
そういう店かとがっかりして出ようとしたときに、二階があることに気付いた。
「文芸書、文庫本はこちら」とあった。
一階と同じ広さに文庫や単行本、雑誌のバックナンバーが並んでいた。
帯のついた本が多く、手入れの行き届いた棚は新刊書店のようにも見えた。
本を手に取ってみれば確かに古本なのだが。
一通り眺めたが目ぼしい本は見つからなかった。
まあこんなもんだ、と帰ろうとしたとき、平置きされた本の表紙が目に入った。
それは、私のバックに入っているのと同じ本だった。
中村文則の「悪と仮面のルール」だった。
中村文則は気になる作家だが、表紙のイラストもデザインも私の好みではなく、それゆえなかなか読む気にならず、ようやく図書館で借りてきてその朝から読みだした本だった。
手に取ってみた。
表紙を開くと、そこには薄い白い紙がはさまっていた。
めくってみると、そこにはやはり著者の署名が書かれていた。
本当に不思議だ。
ちいさな偶然が重なって、たまたま私はそこに居合わせた。
いつもなら通り過ぎる駅に、その日に限ってなぜか電車を降りた。
知らない街のはじめての古本屋へ行くと、図書館で借りて読みはじめたばかりの本が平置きされていた。
その本には作者のサインが入っていた。
ときどきこういうことが起こる。
なぜこれが私のところに?という、モノとの出会いがある。
この本が私のことを呼んでいたのではないか、と思えてならない。